少し前に気付いたのですが、大事なことの様に思われましたので、少し書かせていただきます。
それぞれの言葉は、多種多様なエネルギーを放っている様です。
大雑把に分ければ、気持ちを明るく前向きにしてくれるプラスのエネルギーを放つものと、気持ちを暗くし、エネルギーを奪う様なマイナスのエネルギーを放つものです。(特に何も感じないもの、どちらとも言えないものもあります。)
例えば、「光」は文字通り明るく光るエネルギーを感じますし、「笑顔」は思わず口元が綻ぶ温かいエネルギーを感じます。「神」は、力強いエネルギーで、自分の芯の部分が守られているに感じます。
逆に例えば、「う◯み」(平仮名にし、更に一文字伏せさせて頂きます)は平仮名で書いてもマイナスのエネルギーが強烈で、私には書く事ができません。漢字の方が更に強烈になります。
初めてこれに気づいた時、不思議に思い、手書きしようと試みました。何とか夕の部分まで書けましたが、魂が拒絶する様な感覚で、どうしてもそれ以上書き進める事ができませんでした。
これと同じくらい忌避感を強く感じる言葉や文字もあれば、「怒」「病」など、何とか書けますが、見ていると体が重く、しんどくなるエネルギーを感じるものもたくさんあります。
その他「たつ」には、「経つ」「建つ」「立つ」など、同音異義語がたくさんあるためなのでしょうか。平仮名で単語として書いただけでは、エネルギーは特に感じません。
しかし文章中で、糸へんに色と書く字の意味の「たつ」として書いた途端、強烈なマイナスのエネルギーを放ちます。不思議ですね。
先週でしたか、子どもが学校のプールの授業のことを楽しそうに話してくれました。
どんな泳ぎ方があるかという話になり、けのび、伏し浮き、バタ足、クロールなどと名前を挙げている際、「あ、◯◯◯ふり!」と言いました。その瞬間、その言葉のマイナスのエネルギーがどすっと突き刺さった様な感じがして、体が重たくなりました。
どんな使い方をしようとも、その言葉の持つマイナスのエネルギーが良いエネルギーに変わったりはしないのだな、と実感しました。
自分の使う言葉にも注意しなければ、と改めて思いました。
「なし(梨)」は「無し」に通じるからと、「有りの実」と言った昔の方たちは、省略語やカタカナ語が氾濫し、数え切れない言葉が生まれては消えて行くような現代で生活する私たちより、言葉に対する感受性がずっと高かったのだろうな、と思いました。
「梨」と書いても美味しそうな感じはしますが、「有りの実」と書きますと、甘くて栄養が詰まっているような、もっと美味しそうな感じがします。「有」という字のエネルギーが強いからかもしれません。(この様なお話は、もしかして上耳噺かセミナーでもあったような?)
本やニュースなどの文章は、この様な言葉たちが、渾然一体となっています。
一冊の本を見ていても、暗い話題のページは自然とマイナスのエネルギーを放つ言葉が多くなるためか、眺めているだけでも目が痛くなり、体が重たくなります。
感じると感じざるとに関わらず、現在は、言葉からもマイナスのエネルギーにさらされる機会が増えているのだな、と感じます。
良い言葉は、自分で手書きして眺めるだけでも明るい気持ちにしてくれます。
七芒星の効果かなと思っているのですが、最近は、蝶を見るとその羽の薄さや繊細さを感じ、そこに命が宿っている様子に思わず見入ってしまいますし、隣家の方が夕日に照らされて、畑の野菜や花に水をやっている様子も美しいな、と感じる様になりました。
製品+七芒星が、そういった良いものを感じる感性も、高めてくれているのかなと思います。
言葉に限らず、心を明るく前向きにさせてくれるものに触れる機会を増やす様、心がけたいなと思います。